情熱にんにく畑から家族の健康を 健康家族

愛と情熱で有機の大地にかけた生涯

今も健康家族に語り継がれる

創業者本多荘輔の

情熱にんにく畑誕生ものがたり

家族みんなが健康に
なるためのものを

健康家族の
はじまりは農家でした

健康家族の創業者 である本多荘輔は、昭和一桁の生まれです。戦後の食べ物のない苦しい時代を経験しています。だからこそ、「食と健康」に関しては人一倍敏感でした。

兄弟3人で(右から2番目が本多荘輔)

1976年、 荘輔と妻の泰子は、健康食品を販売する仕事を始めます。
時代は健康食品が認知されて広まりつつある、まさに始まりの時代。さまざまな種類の商品が売り出され、価格が高いものも増えてきていた頃でした。

大分県にて営業販売中の一枚

そのような高額な卸し商品をお客さまに配達する中で、 荘輔は葛藤 を抱えていました。「家族みんなで毎日続けて飲むためには、値段も手頃でないと駄目だ。全国のお客さまの健康のために、手頃で、本当に質の良いものを自分の手で生み出したい」そう思い、荘輔は理想の健康食品が何であるかを模索していました。

しかし、健康食品一筋に商いをする中でさまざまな商品を取り扱いましたが、なかなかこれというものには巡り合えません。
そんなある日、鹿児島に江戸時代から伝わる秘伝食
「にんにく卵黄」 があることを耳にします。荘輔は「この秘伝食こそ、待ち焦がれていたその商品だ」と直感しました。

そして1993年、
「伝統にんにく卵黄」
を世に送り出します。

初代〈伝統にんにく卵黄〉パッケージ

荘輔は、その「伝統にんにく卵黄」に 愛と情熱を傾け続けました。 「本当に良いものをお届けするためにはどうしたら
良いのか」
そのことだけに人生をかけることになるのです。

創業の地

荘輔は「にんにく卵黄」を追究する中で、健康に絶大な効果があるにんにくに魅了されていきました。
胸を張って安心だと言える
にんにく卵黄を作りたい

その思いから、
2003年には、
自社のにんにく畑
での有機栽培に着手しました。

まずは、土地の開墾です。霧島連山の裾野の山地や牧草地を譲り受け、石や瓦礫(がれき)を取り除いていきます。大きな石が埋まっている場所もあり、開墾はとても大変でした。
次は土づくりです。堆肥を多めにすき込んで、深く丁寧に耕していきました。

翌年、初めてにんにくを植え付けることができ、小ぶりながらも順調に生育。しかし、収穫を控えた5月初旬。雨が降り続き、低いところにある畑のにんにくが半分も流されてしまいました。
無情な厳しい
自然の洗礼でした。

収穫と梅雨の時期が重なった年は収穫後の乾燥がうまくいかず、にんにくに大量のカビが生えてしまい、食べられるものではありませんでした。そしてこの年のにんにくも、泣く泣く捨てるしかありませんでした。

農場にて収穫時の一枚

除草剤を使わない畑は、草むしりだけで日が暮れてしまいます。広い畑の端まで草むしりを終えて振り返れば、また雑草が芽吹いています。きりのない除草は、毎日続きます。膝をついての草むしりが、私達一家の一番の仕事でした。
その後も自然との闘いの中で、春腐れ病やアブラムシ、毛虫などで病気になったにんにくは、病気の蔓延を防ぐ為に捨てるしかありませんでした。 丹精込めたにんにくを捨てるのは、
断腸の思いでした。

農薬を使わない。
除草剤も使わない。土壌消毒もしない。

荘輔の理想とするにんにく栽培は、 失敗の連続でした。

さらに地球温暖化が進んで地温も上がり、にんにく栽培はますます大変なものになりました。一般的には、 広い畑での有機栽培は不可能 だと言われていたのです。

夫婦仲良く植え付け。本多荘輔・泰子

しかしそんな失敗の連続でも、荘輔は 「獲れる量が少なくても、良い
にんにくを作ることが大切だ」
と言い続けていました。
沢山の失敗を経験しましたが、私達の手探りの有機農法は、
苦労と代償を土台としてだんだん形になっていきました。

私達には、毎年収穫を迎えたにんにくが まるで宝石のように思えました。

2010年。 苦労の末に、全ての畑で
有機JAS認定 を取得することができました。
今まで歩んできた長い道のり。
それを見届けるかのように、荘輔は
この世を去りました。

構想から20年目を迎える私達の畑は、別名 「本多荘輔の
情熱にんにく畑」
と呼ばれています。

沢山の想いと言葉を残してくれた
創業者・本多荘輔の意思を受け継ぎ、
私達は100年先、200年先まで
情熱を絶やすことなく、

有機にんにく を作り続けていく決意です。

創業家 3代目 藤 朋子

今年の収穫の様子